あきら

Philosophy

Akira's Discipline

内なる「監視者」の軛(くびき)に囚われ、
表層的な「癒やし」では満たされないあなたへ。

はじめまして。思想家・文筆家のあきらです。

もしあなたが今、社会の不可視な規範に絡め取られ、週末の「消費」や根拠のないスピリチュアル、あるいは薄弱な心理学によって、かろうじて自己を維持している状態にあるのなら。

その消耗の根源を、知性によって解体する時が来ています。

1. なぜ、休んでも「魂」は疲れたままなのか

美味しいスイーツを食べても、エステに行っても、月曜日の朝にはまた「鉛のような重さ」が戻ってくる。
それは当然です。あなたが疲弊しているのは、肉体ではなく「魂(プシュケー)」の領域だからです。

私たちは幼い頃から、「愛されるためには良い子でなければならない」「空気を読まなければならない」という社会的な「ディシプリン(規律・訓練)」を、無意識のうちに内面化させられてきました。

「誰にも見られていない時でさえ、まるで監視されているかのように振る舞ってしまう」

これこそが、ミシェル・フーコーが提唱した「パノプティコン(一望監視施設)」の現代的な姿です。

あなたの心の中には、常にあなた自身を監視し、裁きを下す「もう一人の自分(内なる看守)」が住み着いています。この看守がいる限り、どんなに高級なホテルで休んでも、真の安らぎは訪れません。

2. 私が「哲学」に行き着くまで

「理系」という出発点

意外に思われるかもしれませんが、私の思考の原点は「理系」にあります。

高校時代は微積分の描く美しい論理の世界に魅了され、化学や生物学を通して、世界を法則で捉えることに没頭していました。しかし、大学に進むにあたり、私は心の奥底で「私は何者なのか?」という、数式では解けない問いを抱え始めていました。

統計論としての心理学への違和感

大学1年で心理学に触れたとき、私は決定的な違和感を覚えました。そこで語られるのは「多くの人はこうである」という確率や統計論に過ぎず、私の魂が求めていた「個としての救済」とは程遠いものだったからです。

「平均的な幸福」ではなく、「私という実存」を救うものは何か。

その時、高度な数学が抽象度を高めていくにつれて哲学に接近するように、私の論理的な探究心は必然的に「哲学史」へと向かいました。

3. 思想家としての使命 1

私は大学で、ソクラテスに始まる古代ギリシャ哲学から、ニーチェ、ハイデガーといった西洋近現代思想、そして日本思想史に至るまで、古今東西の知を幅広く研究してまいりました。

その中でも、特に私の人生を変えたのが、フランス現代思想家 ミシェル・フーコーの「権力論」です。

現在、私はこれらの専門知を土台に、精神医学や社会学の領域を横断する独自の執筆活動を展開しています。

私のサイト『あきらの一人ディシプリン』は、社会の規格から逸脱し、その摩擦で傷ついた知的な人々が、重厚な仮面(ペルソナ)を解き放ち、自己の呼吸を取り戻すための「知的な亡命地(アジール)」です。

4. 思想家としての使命 2:未だ名付けられぬ「胎動」への招待

現在、私は深夜の静寂の中で、ある「新しい言葉」を産み落とそうと格闘しています。

それは、既存のどの哲学書を繙(ひもと)いても見つからず、薄っぺらな自己啓発の言葉では決して捉えきれない、実存的な生存戦略の萌芽です。フーコーが暴いた「パノプティコン」という監獄から、私たちが真に亡命するための唯一の手がかり。それを私は仮に、『試行的概念(Defensive Wuwei)』と呼んでいます。

その正体が何であるか、今はまだここで軽々しく要約することはできません。なぜなら、その概念は私自身の規律(ディシプリン)と、あなたが抱える「ざわざわ」が交錯する瞬間にのみ、真の輪郭を現すものだからです。

かつての賢人たちが説いた「無為」が、現代の情報の濁流においてなぜ機能しないのか。
なぜ私たちは、休日という「聖域」さえも自ら汚してしまうのか。

まもなく始まる『休息の系譜学』の記録を通じて、私は自らの震える指で、その「産声」を形にしていきます。

安易な答えを求める方は、どうかここでお引き取りください。
しかし、もしあなたが「自分を救うための、全く新しい論理」を渇望しているのなら。

一点の曇りもない「無」の誕生を信じて、私と共に待っていてください。
まもなく、言葉が放たれます。

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